第5話 テラスハウスは終わらない
2020年7月29日更新

『テラスハウス』に出ている花が死んだ、と聞いたのはその日の午後だった。それは何の変哲もない休日の午後だった――と言えば、嘘になるだろう。このとき東京は、いや世界中の都市は新型コロナウィルスの流行によって、自宅待機を「要請」され、晴れた休日の午後を自宅に閉じこもり、多くの人が何かを持て余していたタイミングだったからだ。彼女の死因ははっきりとしないが、SNSでの誹謗中傷を苦にした自殺であるという見方が当初から有力だった。僕はそれからしばらく、何も手につかなくなった。僕はこの『テラスハウス』というリアリティショーが好きで、前のシーズンの「軽井沢編」から毎週欠かさず観ていたからだ。そして、前シーズンの終盤から何か引っかかるものを感じていて、このままではよくないのではと度々苦言を呈していたからだ。それは具体的には、『テラスハウス』の住人たちがSNSで誹謗中傷にさらされすぎるようになっていることについてだった。このままでは、とんでもないことになるのではないか、と何度か公開の場で指摘したこともあった。悪い予感が、いちばん嫌なかたちで当たってしまった、と思った。SNSを検索すると、僕の当時の発言を覚えていて「あいつが想定した最悪の結果になってしまった」と指摘している読者が何人かいた。そのせいもあって、すっかり気が滅入ってしまった。言いたいことは山ほどあったけれど、我慢することにした。少なくともマスメディアがこの件を報道している間は、触れるのは避けようと考えた。一度だけ、あるインターネット番組に依頼されて見解を述べたけれど、他ではほとんど触れてこなかった。しかしいつか、必ずこのことについて僕は書こうと思った。僕は毎週、彼ら彼女らの言動を見守って、その振る舞いに一喜一憂していたからだ。一昨年の秋には、仲間たちと当時テラスハウスが設けられていた軽井沢にロケ地めぐりに出かけた。翔平が聖南さんに告白してフラれた教会の前や、中村「寮長」のアルバイト先の焼き鳥屋の前で記念撮影もした。ついこの間まで放送されていた「東京編」では、鈴木志遠というメンバーがお気に入りだった。志遠はこの春に立教大学を卒業したばかりの駆け出しのモデルで、放送中断する直前の回で「来年の仮面ライダーのオーディションを受けるつもりだ」と、ルームメイトの女性に話していた。仮面ライダーシリーズ(ちなみにこの20年あまりで、「仮面ライダー」シリーズは若手男性俳優の登竜門として定着している。オダギリジョー、要潤、水嶋ヒロ、佐藤健、瀬戸康史、菅田将暉、福士蒼汰、吉沢亮、竹内涼真……みんな仮面ライダーだった青年たちだ)の長年のファンである僕はすっかり嬉しくなってしまった。あの賢くて、慎重だけれどどこか目の前のことでいっぱいいっぱいになってしまうところのある志遠が、次の仮面ライダーに選ばれて「変身」するのを想像すると、とても楽しくなった。これはリアリティショーという文化の持つ、ちょっと変わった感情移入のメカニズムだと思った。僕はこの番組を観ずに雑誌で彼の決めポーズを目にしても、TVで仮面ライダーに変身する姿を目にしても、こうした感情は抱かなかっただろう。僕は彼の等身大の(とは、ちょっと言えないけれど)日常の、演じない(いや、演じているのだろうけれど、番組の性質上なかなか演じきれない)姿を目にしたからこそ、縁もゆかりもないこの青年の夢を応援したいと思ったのだ。そして、同時にこの縁もゆかりもない人間への感情移入のメカニズムこそが、花を追い詰めたのだ。
 僕は『テラスハウス』が好きだった。もちろん、それがつくりものであること、リアリティ「ショー」であることは割り切って、若いタレントやアーティストたちが番組でいかに立ち回り、どう変化していくのかを見守っていた。そしてだからこそ、この番組とSNSとの関係の微妙な、しかし決定的な変質のことがどうしても気になっていた。

 最初に異変に気がついたのは、「軽井沢編」の終盤だ。あるメンバーが、あるメンバーと喧嘩をはじめた。これは見知らぬ男女複数名の共同生活を描くという『テラスハウス』においてはしばしばある光景だ。そしてその中で、片方のメンバーがもう片方のメンバーに対して、自主的な「やらせ」を暴露し始めた。要するに「お前はカメラの回っているところではこう振る舞っているけれど、実はあれは他のメンバーと打ち合わせた上での演技だっただろう」と言い始めたのだ。そして、その模様はそのまま公開された。つまり、制作陣が意図的にメンバー間のやらせ暴露を公開したのだ。これはおそらく、そのほうが視聴者が盛り上がると判断したのだと思う。実際にこの暴露合戦の開始によって、「軽井沢編」の終盤はまったく先の読めないスリリングな展開になった。もちろん、こうして制作陣が意図的に公開している以上、この暴露合戦自体が「やらせ」である可能性も否めない。しかし、このような問いはほとんど意味がないだろう。なぜならば、このとき『テラスハウス』の実体は既に「若いタレントやアーティストが、番組を通じていかにインフルエンサーの座を獲得するか」というゲームに変質していたからだ。僕が観始めた「軽井沢編」の時点で、既にこの番組の主戦場はSNS――具体的にはTwitterとInstagram――にあった。『テラスハウス』に出演する若者たちのほとんどが、若いモデルや俳優の卵や、野心を持ったアーティストだ。彼らは番組を通じて、若者たちの支持を獲得して、インフルエンサーになることを(特にInstagramのフォロワーを増やすことによって)目指している。そのため、番組上の振る舞いでいかに自分の好感度を上げるかを競うゲームをプレイすることになる。たとえば、男性住民は男性視聴者に人気の高い女性住民よりも女性視聴者に人気の高い女性住民と付き合うほうが、当然女性視聴者からの「好感度」は上がることになる(この「軽井沢編」で言えば、岡本至恩が実際に付き合うことになった佐藤つば冴ではなく小室亜未を選んでいたら、彼への支持は大きく異なっていただろう)。
 僕は『テラスハウス』の何者かになりたいと必死に、しかし必死だと観ている人間になるべくさとられないようにアピールしながら、それぞれの夢に向かう(夢を探す)若者たちの青春群像が好きだった。僕が観始めたときから、それがSNS上でインフルエンサーに成り上がるために、なるべく好感度の高い若者を演じるゲームでもあることは自明で、だからこそ僕は興味を持ったのだ。そこにはSNSを前提とした時代を生きる若者たちの「リアル」が切実ににじみ出ていた。

 そしてこの「軽井沢編」の終盤で展開された住民同士の「やらせ」的な行動の暴露合戦――正確には、こうした裏側を暴露したのは意図的にそのシーンを選んで放送した制作側である――をきっかけに、僕は住民たちのTwitterやInstagramのコメント欄の「荒れ」方が一線を越え始めたと感じるようになった。もちろん、それ以前からリアリティショーの感情移入のメカニズムは、「縁もゆかりもない」他人への過度な感情を生成させ、SNSでのネガティブなコミュニケーションを誘発することは全世界的に問題視されていた。それは当然『テラスハウス』も例外ではなかった。『テラスハウス』は住民たちの言動を追うVTRのあとに、スタジオでタレントたちがコメントを加える、という構成の番組だ。このタレントたちは僕の観始めたころから、住民たちの言動に「ダメ出し」して笑いを取ることが多かったと思うし、僕を含む視聴者もそれを含めて楽しんでいたのは間違いない。しかし、それと実際に彼ら彼女らのSNSのコメント欄に誹謗中傷を書き込んで追い詰めるのは次元の違うことだ。そして気がつけば多くの視聴者がYOUや山里亮太がそうしたように、いや、実際にはスタジオのタレントたちが最低限保持していた配慮すらないかたちで、罵詈雑言を住民たちに浴びせるようになっていた。
 そしてこの住民たちへの罵詈雑言は、「軽井沢編」終盤の展開を経てより凶悪化していったように僕には思えた。「軽井沢編」の終盤の展開は、制作側が半ば公式にこの番組が住民たちの評価経済的な好感度獲得ゲームであることを認めたに等しい。約半年のインターバルを置いて再開された「東京編」では、住民同士のやらせ的言動の暴露は常態化し、メンバー同士の喧嘩では、当たり前のようにあいつは売名目的でこの番組に出ていて、そのために他の住民を(ないがし)ろにした言動をとっているといった類の批判が飛び出すようになっていった。スタジオのタレントたちもTwitterやInstagramでインフルエンサーになりたいと考える若者たちのあざとい言動を、目ざとく見つけてあざ笑うことが増えていった。それも、住民たちの出演動機や、番組外の社会的な活動に対する影響に言及するようになっていった。いちばん僕が驚いたのは、ある住人をスタジオのタレントたちが「売名目的で番組に出ている」と批難したときだ。テレビ番組に出て有名になりたいという動機を批判するのなら、まずはあなたたちがタレントをやめるべきじゃないかと、僕は耳を疑った。

 気がつけば、この番組はスタジオのタレントたちが標的になる住民を定めて、彼/彼女の言動をひたすらあげつらうものに半ば変化していた。最後の数ヶ月は、YOUもしくは山里亮太の標的にならないことが、この好感度獲得ゲームの勝利条件になっていたことは間違いない(もちろん、YOUも山里亮太も番組的にその役割を果たしていたのであって、タレント個人を批判するのはお門違いだ。間違いなくYOUにも山里亮太にも責任はある。だがそれはあくまで番組の送り手のひとりとしての責任で、そこを履き違えてタレント個人を批判するのは問題理解が甚だ浅いと言わざるを得ない)。僕は――実はこの数ヶ月繰り返し指摘していたのだが――特定の住人に視聴者の批難が集中しないように、それこそスタジオのトークに「演出」が必要だったと考えている。住人のフォローに回ることの比較的多かった徳井義実が、まったく別件のスキャンダルで芸能活動を自粛してしまったことの影響も大きかっただろう。しかし、繰り返すが制作陣がこの一連の変質に無自覚であったとは考えられない。
 もちろん、もっとも責任があるのは花を追い詰めた人々だ。しかし、その次にこのような状況を把握していながらも、それを看過していた(番組の盛り上げの一環として、許容していた)制作陣の責任はもちろん、軽くはない。僕は制作陣は、「いじめ」が加速しないようにそれこそ「演出」する必要があったと思う。しかし彼らはそれを選ばなかったのだから。

 なぜ、制作陣はこのいじめエンターテインメントと化した『テラスハウス』を看過したのか。おそらくそもそもそれを問題だと考えていなかったのではないか、というのが僕の仮説だ。この原稿を書いている現在、制作サイドの「やらせ」的な演出の存在が出演者から告発され、物議を醸している。これは前々から指摘されていたことで、この番組のある程度熱心なファンの多くはそれを織り込み済みで観ていたことは間違いない。だから問題はむしろ、「やらせ」の存在というよりは、「やらせ」を通じて制作サイドが「何を」演出したかったのか、ということだ。僕はこう考える。彼らは少なくともある時期からは「いじめ」エンターテインメントを意図的に「演出」していたのだ。それはこの『テラスハウス』に限ったことではない。それは、この番組の体質なのではなく、テレビ業界そのものの体質であり、ひいてはこの社会そのものの体質なのだ。

 もはや説明の必要もないだろうが、ワイドショーにせよ、バラエティにせよこの国のテレビの文化そのものが、多分にこの「いじめ」の快楽の提供によって成り立っている。週に1度、生贄を選ぶ。目立ちすぎた人や失敗した人を週刊誌が選ぶこともあれば、それをワイドショーが自分たちで見つけ出すこともある。そしてテレビのタレントたちが「多数派の」「目立ちすぎていない」「失敗していない」立場から石を投げる。そうすることで、自分たちは「まとも」で「大丈夫」な側だと安心する。こうして娯楽産業の多くが「数字」をつくり、それで食べている人々がいる。番組を観ていた視聴者たちはSNSを用いてそれとまったく同じことをする。そうすることで何者にもなれない自分をごまかして安心する、死んだ魚のような目をした人々がいる。そしてそんな死んだ魚のような目をした人たちに、正義という名の棍棒を与えて誰かを殴り倒せと耳元でささやき、その人の中に湧き上がった黒い感情を換金し、集票に利用するメディアや言論人たちがいる。
 閉じた相互評価のネットワークの中で、いま、誰を叩くと安全に自分の株が上がるのかを考えて石を投げる。そしていちばんうまくターゲットの顔面に石をヒットさせた人間が座布団をかせぐ。そんな大喜利が、いまSNSで常態化している。これは、この数ヶ月、いやもっと前から『テラスハウス』で行われてきたことそのものだ。『テラスハウス』という番組は終わりを告げたが、『テラスハウス』的なものはこうしているいまも、誰かに石を投げて気持ちよくなりたい、得をしたいと考えている人々と、その欲望を煽って換金したいメディアによって継続されているのだ。
 誰もが閉じた相互評価のネットワークの中で、好感度獲得のために大喜利ゲームに参加する――今日のSNSに覆われた社会は、まさに『テラスハウス』そのものなのだ。

 それはこの「1億総テラスハウス状態」とも言える状況につけこんで、トラフィックを稼いできたTwitterやInstagramなどSNSプラットフォームの責任も大きいと言わざるを得ないことを意味する。彼らがアカウントの主が、自分の投稿につけたコメントを削除できるようにするだけで、そもそもコメントできるユーザーを制限できるだけで、状況はかなり違ったはずだし、公式リツイートや検索やホットワードの仕様変更も、大きな効果を発揮しただろう。しかし彼らはそれをしなかった。こうしているいま、『テラスハウス』の視聴者と、番組制作者と、そしてTwitterやInstagramなどのSNSプラットフォームはそれぞれ責任を押し付けあっている。しかし、この三者の欲望と思惑が絡み合った結果として、この国のインターネットの「いじめ」文化が加速したことは間違いない。それは要するに、僕たちの社会そのものが、いじめの、私刑の快楽やその商業利用、政治利用の誘惑を断ち切れないでいる、ということなのだ。

 僕はもう7年か、8年前から自分に定めているルールがある。それは、たとえどんな理由があったとしても、いま、タイムラインの潮目的に叩きやすい人に石を投げてスッキリしたり、自分の株を上げようとしている人を見かけたら、その人とはできるだけ距離をおいて、可能な限り仕事をしない、どれほど困っていても手を差し伸べないようにする、ということだ。僕の知り合いの中には、特に疎遠になるような出来事もなかったのに、僕からまったく連絡が来なくなったり、仕事の依頼がなくなったりした人も多いと思う。そしてその理由のほとんどは、その人がSNSで、いま叩きやすい誰かに石を投げてスッキリしたり、得しようとしたりしているのを僕が目にしたからだ。

 残念ながら、いまの僕に、この状況を覆す力はない。しかし、僕は絶対にこのコストパフォーマンスのよいプレイとしていじめ大喜利を選ぶ人々を認めない。この人たちは、花の死を悼むフリをして自分の株を上げることしか考えていない。だから、口ではそれを批判しながら、自分が花を追い詰めたことと同じことを他の人に対してできるのだ。僕はこの人たちのようなやり方が通用しない世の中に、少しでも近づけたいと思っている。それが誰もが『テラスハウス』の住人になった時代に対する僕の、とりあえずの回答だ。

 僕は志遠が夢を叶えて、仮面ライダーになる姿を見たかった。オーディションは3月だと言っていたから、もうとっくに結果は出ているのかもしれない。狭い業界なので、少し調べたら結果を知っている人から話を聞くことができるのではないかと邪な考えが頭をよぎったけれど、やめた。大事なのは、次の仮面ライダーに変身する役を彼が演じることではなくて、彼が『テラスハウス』の数ヶ月を経ることでどう変わったか、彼自身がどう変身したか、だと思ったからだ。いつかどこかの雑誌で、あるいはいつかどこかの映画館やテレビモニターの中で、モデルとして、そして役者として成長した彼と再会できるのを、僕は楽しみに待っている。
 
宇野常寛(うのつねひろ)プロフィール
宇野常寛(うのつねひろ)
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版)。 石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多數。 企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。

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