第6話 カサブランカは間に合わない
2020年9月30日更新

 2020年7月、僕は新潟県の津南という町を訪れた。ここは新潟県と群馬県の県境にある山間の村で、苗場山のふもとにある。米の産地としての魚沼という地名が知られているが、広くとればその一部と考えていい。近年はこれに加えて苗場山で行われる音楽フェスや、隣の十日町市を中心に行われる芸術祭などの会場として、文化的なイベントで注目を集めているエリアの一角に、この津南という小さな町がある。
 僕がこの夏に津南に足を運んだのは、親しくしているNPOから取材に来てほしいという依頼を受けたからだ。このNPOは僕の友人が主宰する団体で、さまざまな自治体の町おこしをサポートしていた。津南町はそのうちのひとつで、以前から一度現地に足を運んで意見をしてほしいと言われていた。なぜ、このタイミングなのかと疑問に思ったが、コロナ禍によって特産品のユリの出荷が苦戦しているらしく、これをサポートするキャンペーンを僕が主宰する媒体で取り上げてくれないかと依頼されたのだ。
 この数ヶ月、予定されていた出張がほとんどなくなってしまい、新宿区という日本でもっとも危険な(とされている)エリアからほぼ出ない日々を送っていた僕は久しぶりにこの街から離れたくなって、引き受けた。
 そしてその日、僕と僕の媒体の編集部のスタッフ2名、そしてそのNPOのスタッフ2名――西川さんと古谷さん――の合計5名の一行は、2時間ほど新幹線に揺られて、越後湯沢の駅に降り立った。目的地の津南町は、さらに自動車で1時間と少しかかるはずだった。
 そこから僕らはレンタカーで、津南に向かった。毎年夏は、この新幹線の駅のある街は音楽フェスで賑わうはずなのだけれど、今年は新型コロナウィルスの影響で中止になり、客足はさっぱりなのだと西川さんは述べた。
 津南町へはその行程で『頭文字(イニシャル)D』でマイルドヤンキーたちが土曜の夜にたむろしていそうな小さな峠を二つ越える必要があった。車窓から見えるのは、豊かな自然に感動することはない程度に開発されてはいるが、地方中核都市のように量販店やショッピングモールの並ぶような賑わいはない、特に特徴のない過疎の山村の風景だった。印象的だったのは峠を越えるまでは某宗教団体系政党のポスターがやたらと目についたのに対し、峠を越えると自民党と共産党のそれが多くなったことだった。

 最初の訪問先である津南の町役場は、町でいちばんの繁華街だという商店街の一角にあった。商店街と言っても、昭和に多く見られた2階が店主の住居になっているタイプの個人商店がいくつか並んでいるもので、そのほとんどがシャッターが降りているか、形式的に開店してはいるものの店先には日光で色あせた青白いポスターとホコリを被った商品が並ぶ、いわゆる「開店休業」状態にある商店であった(町民のほとんどは、その「繁華街」から少し離れた同じ国道沿いの小さなスーパーマーケットで買い物をしているということだった)。

 町役場はこの町の中では明らかに新しい建物だったけれど、建物の中身は完全に平成中期の文化が支配しているようだった。今どき珍しい灰色の直方体を無機質に組み合わせたスチールの事務机が並び、そのどれもにこれまた今時珍しい緑色のデスクマットが敷かれていた。そしてその緑色のデスクマットの上にはどの職員のそれにも、プリントアウトされた「書類」が積み重なっていた。もちろん、どの職員の机上にもノートパソコンが鎮座してはいた。どのパソコンもWindowsの少し古い機種で、事務仕事をするにはやや大型すぎるそれらのコンピューターはどれもジリジリとよからぬ駆動音をさせてはいた。にもかかわらず、彼らのデスクに書類があふれているのはおそらくいちいち文書を「プリントアウト」しているからだった。

 僕らはまず、2階の町長室に通された。津南の町長は桑原悠(くわばらはるか)さんという33歳の女性で、2020年7月の時点では国内最年少の「町長」だった。
 学生時代から卒業後は故郷の津南のために働きたいと考えていた桑原さんは、大学院時代に町議となり、町の政治に携わるようになった。その後前町長の引退を受けて町長選に立候補して当選、過疎と高齢化に苦しむ町の「構造改革」に着手して、現在1期目(3年目)だ。周囲からは若すぎるという反対の声も多かったが、小中学校の同級生やその親世代が、覚悟をもって東京から帰ってきた桑原さんのことを応援してくれたのだという話だった。

「たいへんなときに、わざわざありがとうございます」
 桑原町長はそう言って、丁寧に頭を下げた。いわゆる「意識高い系」を想像していた僕は、その柔らかい物腰に接して、いい意味で裏切られたと感じた。少し話しただけで決して器用なタイプではないけれど、誠実な人柄であることが伝わってきた。
 桑原町長はざっくばらんに、あけすけに、町の現状について話してくれた。この町の経済でいちばん多くの割合を占めるのは、町外れにある東京の電力会社のダムとその関連施設だという。次は山道のメンテナンスを中心とした土木工事で、三番目がこの町役場だという。中心的な産業であるはずの農業は自立した産業として成立しているとは言い難いものがあり、課題である過疎と高齢化に歯止めをかける目処(めど)はまったく立っていない、と。

 そもそも現代日本の地方自治体の多くでは、電気、水道、道路、そしてゴミの処理など、最低限の生活環境を維持するためだけに、住民一人あたりかなりの額の公金が投入されている。もちろん、都市部でも公共サービスの維持には莫大な予算が必要になる。しかし、問題は地方の、それも過疎地におけるそれは住民一人あたりにかかる費用が跳ね上がることだ。
 自治体によっては、住民一人あたり数百万円の税金が都市部に比べて多く投入されているケースも珍しくはない。そしてその予算は、基本的に地方交付税交付金などのかたちで国から流し込まれる資金で成り立っている。もちろん、それでこれらの地方自治体の人たちが贅沢な暮らしをしているのかというと、そんなことはあるわけがない。この税金は、これらの山村や離島に人が「暮らす」ための最低限の環境を維持するためだけに使われているのだ。そしてこれらの山村や離島に暮らす人々の経済状態はむしろ良くないことのほうが多く、年収200万円台も珍しくない。単純に考えて、この「田舎に人が住める」ようにするためのインフラ維持にかかる公金の半額でもいいので、都市部に移住する代わりに現金支給したほうがこうした人々の生活は劇的に改善するだろう。しかし、人間の心理はそれが合理的だという理由ではまず動くことはないし、こうして中央から流し込まれる税金を、あらゆる口実をつけて特定のコネクションでシェアする既得権益のネットワークも存在する。
 現代日本でこうした地方に生きるとは、半ばこの種の中央から流し込まれる予算の恩恵を受けることのできるコネクションに入り込むゲームをプレイすることになっている。この悲しい現実が、才能と情熱を都市に流出させる大きな原因になっているのだ。
 これだけ書くと絶望的に聞こえるかもしれない。しかし、これは日本の地方の、ありふれた郡部の自治体の姿だ。桑原町長が闘っているのは、こうした現実だった。

 僕は桑原町長に、今、最も力を入れて解決を試みている問題は何かと尋ねてみた。町長は、町内にある病院が年間数億円の赤字を垂れ流していることだと述べた。この津南には、このエリアでは最大の総合病院があった。これは津南が医療に戦略的に力を入れた結果ではない。他の自治体や、民間の経営する周辺の病院が、不採算の過疎地からどんどん撤退していった結果、のんびりした自治体運営をしていた、桑原さんに町長が替わる前の津南が撤退しそびれたのだ。そして、今となってはこのエリアで最大の総合病院となってしまったこの病院を潰すことは、地域医療の水準を保つためにできない。いまから可能なのは、できる限り、この病院の経営を「合理化」することだけだという。
「なので、診療日を減らさないまま少しでも予算を圧縮できるように、いま、病院改革に着手しているんです。役場に病院経営の経験者なんて誰もいないので、手探りの毎日です」

 町役場への「表敬訪問」を終えた僕たちが向かったのは、この津南の抱えるもう一つの負の遺産「ニュー・グリーンピア津南」だった。これは津南の町を見下ろす山の中腹に設けられたリゾート施設で、もとは国の保養施設だった。立案は1970年代の田中角栄内閣までさかのぼる。同内閣が進めた国土の均等開発政策の一環として、全国にリゾート施設を設ける計画が立案され、1980年代を通して全国10箇所以上が建設され、当時の年金福祉事業団によって、運営されていた。この「ニュー・グリーンピア津南」もそのうちの一つで、ホテル、キャンプ場、スキー場、動物園などを備えた複合施設として、1980年代にオープンしたものだ。しかし、それなりに賑わいを見せたのはオープン直後の数年のみで、バブル経済の崩壊以降は収支が年々悪化し(そもそもの運営計画に問題があったという指摘もある)、オープンから10年後には億単位の赤字を垂れ流すようになっていた。2001年に発足した小泉純一郎内閣は「構造改革」の一環として、全国のこの種の「バブルの負の遺産」の閉鎖を断行し、実際に全国に星の数ほどあったこの種の施設が次々と閉鎖されていったのだが、津南町とその周辺の自治体の住民たちは、貴重なサービス産業の雇用を生み、数少ない観光資源であるこの施設の存続を訴えた。その結果、2005年からこの「ニュー・グリーンピア津南」はいわゆる第三セクターという形式で、事実上津南町がその赤字を引き受けるかたちで存続運営されることになった。そして、それから15年。この施設はこうしている今も毎年莫大な赤字を垂れ流し続けている。この「ニュー・グリーンピア津南」の存在が、町のもう一つの悩みの種だった。役場からそれほど遠くないということなので、僕たちはこの施設を「視察」することにしたのだ。

 ニュー・グリーンピア津南は予想以上に閑散としていた。平日の昼間、しかもこのパンデミック下という条件も相まって、ほんとうに一人も僕たち以外に訪れている人はいなかった。基本的にこの数年は、中国からの団体観光客が宿泊者のうちのかなりの割合を占めていた。そして、その中国からの団体客が途絶えたいま、ニュー・グリーンピア津南はほんとうに、完全にゴーストタウンになっていた。
 広い駐車場には、僕たちのレンタカー以外には隅っこの方に地方でよく見かける地元ナンバーの軽自動車が2台と、あとなぜか陸上自衛隊の軽トラックとバンの中間くらいの大きさの車両が止まっているだけだった。2台の軽自動車は明らかにこの施設のスタッフまたは出入り業者のもので、陸自の車両はほんとうになぜ止まっているのか不明だった。とにかく、どちらも観光客でないことは明らかだった。
 駐車場には、たこ焼きとソフトクリームを売るプレハブの商店が建っていた。壁は汚れ、そこに貼り付けられたメニュー表は日光で色あせていた。もう何ヶ月も開店していないことは明らかだったが、それがパンデミックによってもたらされたものなのか、それ以前から進行していた状況がもたらしたものなのかは、ちょっと判断できなかった。

 僕たちは、なんだか申し訳ない気持ちになりながら、ホテルの自動ドアをくぐった。すると、まず目に飛び込んできたのは小さな丸テーブルの上に載せられたアルコール消毒液だった。A4のコピー用紙に「入館時に手指の消毒をお願いします」と油性ペンで書き殴られていたので、僕たちはそうした。
 ロビーに足を踏み入れると、従業員たちが一斉に僕らの方を凝視した。小学校の体育館を二つつなげたくらいの、天井が高く開放感のある白壁のロビーだったが、その設計が逆に閑散さを強調するという皮肉な状況を生んでいた。
「ご宿泊ですか」おそらくはいちばん年長だと思われる男性のホテルマンが近寄ってきて、僕らに尋ねた。その人はホテルマンらしく、ぴしっと背筋が伸びていて、声に張りがあった。「いえ、ちょっと買い物に……」
 僕が答えると、ホテルマンは最近よく見かける拳銃のような体温計を取り出して、「それでは検温のほう、よろしくお願いします」と述べた。そして慣れない手付きで、僕たちの額に体温計を当て、そのたびに「36度5分です」とか「36度3分です」とか、数字まで読み上げていった。そしてその一連の工程を、ほかのホテルマンたちが凝視していた。とにかく、気まずかった。
 ほんとうに、僕たち以外ロビーには客が誰もいなかった。
 ロビーのテレビでは、夕方の地上波のワイドショー(首都圏でいうと「5時に夢中!」)で、地元局のアナウンサーとあまり顔を見たことのないタレント風のコメンテーターたちが、夏休みの帰省ラッシュで新型コロナウィルスの感染が拡大する「可能性」について議論していた。

 売店を軽く覗いたあと、僕たちはそこには立ち寄らず2階のゲームセンターに向かった。ふと目をやると、玄関の消毒のお願いと同じようにA4のコピー用紙が入口に貼ってあって「ゲームコーナーをご利用の方はフロントにお声をおかけください。電源を入れます」と書いてあった。どうやら、節電のために普段はこの部屋自体の電源を切っているようだった。そしてそれは、このゲームセンターでゲームを楽しむには、ここからもう一度階段を下りて、フロントまで歩いていきスタッフに電源を入れてくれるようにお願いする必要があることを意味した。
 もちろん、本当にここでゲームをする気はなかったので、僕らはそのまま薄暗いゲームコーナーの中に足を踏み入れた。踏み入れたとたんに、「こんにちは、ぼくドラえもんです」という懐かしい声が僕らを出迎えた。それは、大人の背丈ほどあるドラえもんの遊具で、ドラえもんのお腹にあたるところに子供が乗り込んで、かんたんなクイズゲームを楽しむもののようだった。僕たちはこのゲームコーナーそのものの電源が切られていると思っていたので、本当にびっくりした。どうやら切られているのは奥に鎮座するアーケードゲームとパチスロの筐体(きょうたい)だけらしく、入口付近に設けられた子供向けのドラえもんやきかんしゃトーマスの遊具の電源は入っているようだった。ちなみにドラえもんの声は現役の水田わさびではなく先代の大山のぶ代で、この遊具自体が年代物であることを証明していた。
 奥に並べられたアーケードゲームの筐体も、どれも古かった。びっくりしたのは、もう15年以上前にカプコンとバンダイが共同開発した、『機動戦士Ζガンダム』の格闘ゲームがあったことだ。このゲームはPS2に移植されたときに、ソフトを買ってそれなりにやりこんだので、こちらもひどく懐かしかった。ただ、おそらくは15年以上窓際に置かれ続けたこの筐体もかなり日焼けしていて、各モビルスーツと操作方法を説明した用紙はほとんど判読不可能になっていた。

 その日の夜は、津南の温泉宿で一泊した。観光産業はほとんどないといってよいが、温泉の出る津南には数軒の宿が営業していて、僕たちはそのうちの一つの宿に宿泊し、肩まで湯に浸かって温泉で一日の疲れを癒やした。

 翌日、僕たちはいくつかの町の施設を見学した。縄文時代の遺跡から出土した土器などを展示する施設「なじょもん」や、廃校になった小学校を改装した多目的施設、仕込みの真っ最中の酒蔵などに次々と足を運んだ。そのどれもが、津南という土地の豊かな自然と、その自然と人間との関係が長い歴史の中で育んだ厚みのある文化を体感できるものだった。しかし、その豊かさと厚みを感じれば感じるほど、僕はあの昨日立ち寄った「ニュー・グリーンピア津南」の閑散とした姿が脳裏に蘇ってきた。いったい、どこでこの町は間違えてしまったのだろう、と僕はずっと考えていた。

 昼下がりに、僕たちは山腹の展望台に立ち寄った。町の中心部を見下ろせるそこから眺めた川と、田んぼと、反対側の山麓はとても美しかった。ただ、人間の作り上げた住宅群と、国道沿いの旧商店街だけが明らかにその景色を(むしば)んでいた。
 津南の町を眺めながら、僕は思った。地方が生き残るとはどういうことか、もう一度根本から考え直すべきだと。町長以下、この町の中核にいる人たちの多くが、地方が生き残るとはこの土地に人口が増えて、税収と国から回されてくる地方交付税交付金が増えて、そして隣の十日町市のように「発展」することだと思っている。しかしそれは、本当にこの土地にとって幸福なことなのだろうか。観光客を動員して、工場を誘致して、商店が増えて、人口が増えることで、たしかにこの町の人たちの暮らしは便利に、豊かになるだろう。しかしそういう暮らしがしたいのなら、十日町市に移住すればいい。あるいは東京に出ればいい。それでは過疎が止まらないと言うだろうが、僕はそれでも構わないと考えている。
 そもそも地方が生き残るとはどういうことか。それはその土地の自然と文化が生き残るということだ。この町には豊かな森と縄文時代から続く文化がある。それを守ることさえできたら、それでいいのではないか。いま、この町には約9000人の人口がある。それをなんとか10000人以上に戻したいと考えているようだけれど、それは間違いだ。僕は以前にも、この町と同じような規模の自治体の町おこしをテーマにしたイベントに出席したことがある。その町は10000人の人口を養うために、工場を誘致し、商業地区を開発しようとして、まったくうまくいっていないことに悩んでいたが、その発想自体が間違いなのではないか。東京のような暮らしがしたい人は、せめて十日町市のような地方の中核都市に移住すべきだ。この町は縄文時代から人が住んでいて、その自然と文化を守ってきた。戦後まで、人口は5桁はおろか4桁あるかも怪しかったような土地だった。しかしそれでも、2000年以上やってきた実績がある。
 僕はこれからこの町に住むのは、いくら不便でもこの土地に住みたいという人たちだけでいいと思う。そしてその土地の自然と文化を守るために人生を投資したいと思う人たちだけでいいと思う。人口など、3桁でも構わない。彼らには、たっぷり税金で補助を出して、そして森と棚田を守るためにクリエイティブな仕事をしてもらえばいい。もちろん、それはこの津南という自治体の消滅を意味する。そうなればおそらく十日町市などの周辺の自治体に吸収合併されるだろう。しかしそれで困るのは役場の公務員と町議会の議員たち、あるいは自治体を経由して落とされるカネで回っている地元経済のネットワークの関係者といった特定のコミュニティの成員だけであって、彼ら彼女らが守ろうとしているものを日本語で既得権益と呼ぶ。僕は津南に限らず、いま、過疎と高齢化に苦しむすべての自治体に問いかけたい。あなたがたが守りたいのは、いま現在存在している関係者の雇用と経済的な安定ですか、それとも、この土地に住む人々に受け継がれてきた自然との関係とそこから生まれる文化ですか、と。彼らは前者だと答えざるを得ないだろう。しかしそれは、この冬の飢餓を乗り越えるために来年の種もみを食べてしまうようなものだ。こうして、日本中の自治体が、何もかも分かっているにもかかわらず自ら袋小路に迷い込むことを選ばされ、そして未来を見失っているのだ。

 その後、僕たちは最後にこの津南の特産品であるユリ栽培の取材に向かった。津南は国内最大のユリの産地だ。しかしコロナ禍によるブライダル産業の不況で、ユリの出荷も大きく落ち込み、今年はかなりの苦戦を強いられているという。少しでも地域社会からの支援が必要ではないかという議論が町内で生まれ、地元の宿の若女将たちと町役場が連携して、これまでは比較的重視してこなかった観光客へのユリ栽培のアピールが行われていた。僕らはその若女将たちにも取材したが、このコロナ禍によって、こうしてこれまではそれほど積極的に連携してこなかった、町のさまざまな産業の横の連携が生まれているという話が印象的だった。


 東京に戻る直前、僕らは山腹の畑の前で待ち合わせて、軽トラックで現れた二人のユリ農家の男性と案内役の農協の職員さんと合流した。彼らは畑とビニールハウスと雪室を案内しながら、たくさんのことを話してくれた。オランダと連携した球根の品質管理のこと。この苗場の山麓に降るたくさんの雪と、その雪解け水の地下水がどう流れているかということ。その水をどの畑にどう流してユリにベストな環境を作り上げているかということ。山の変わりやすい天候に合わせた、ビニールハウスの時間単位の微調整のこと。そして、こうした繊細な土地との対峙があってはじめて、世界で勝負できるユリを育てることができるということ。
 僕は、彼らの話を聞きながら、本当に土地と向き合うということはこういうことなのだと思った。それは、仕方がないことなのかもしれない。しかしやはり僕たちは、どこかでどうしてもそれぞれの土地ではなく、この数十年くらいの間に生じた既得権益のネットワークをどうするか、解体するのか、維持するのかという部分にばかり関心を奪われている。
 しかしこのユリ農家たちは、結果的にだけれどもグローバルな技術交流と東京の市場に「開かれて」いるために、逆にこの土地そのものと正面から、そして繊細に向き合うことを余儀なくされ、その豊かさを成果に結びつけている。僕にはそう思えた。
 僕は思った。この豊かな土地は、ほんの少し間違えているだけなのだ。一段か二段、ボタンをかけ違えているだけなのだ。外の世界に対して、どこを閉じて、どこを開くかを間違えているだけなのだ。それを桑原町長をはじめとする町の人々は、少しずつ直していっている最中なのだと。しかし、残された時間は決して多くない。これ以上のかけ違いは、もう許されない。「比喩的に」述べるなら、もう一度正しく土地と向き合うことで、土地と人間との関係を結び直すことで、1輪でも多くユリの花を咲かせること。それが、いま、この土地には――そして日本中に無数に存在している「津南のような」土地には必要なのだと思った。

 東京に戻ると、桑原町長から大きなカサブランカの花束が届いていた。スタッフが大きな花瓶を買ってきて、事務所の玄関に飾った。あれから1ヶ月と少し経ったいま、花はとっくに枯れてしまったけれど、その香りはまだしっかり覚えている。
 
宇野常寛(うのつねひろ)プロフィール
宇野常寛(うのつねひろ)
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版)。 石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多數。 企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。

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